2019年1月12日土曜日

旧李王家宅

千代田区紀尾井町 赤坂プリンスクラシックハウス(赤坂見附、永田町下車)

李王、李垠の居宅。1930年竣工。それまでは鳥居坂に居宅があった。韓国併合により韓国皇帝の一族は朝鮮王族となり皇室は李王家となり、皇室扱いを受けた。併合当時、李垠は王世子であったが、1926年、純宗の死後李王となった。1920年には梨本宮方子(李方子)と結婚した。ここで終戦まで生活した。

旧韓国公使館跡

公使館付近 

敷地にあった、江戸時代に建立された石碑

千代田区四番町。ルクセンブルク大使館隣(市ヶ谷駅)

1876年、朝鮮王国と日本の国交が回復された以来、日本に朝鮮公使館が設置されるまでかなり時間がかかった。清との冊封下にあり、形式上外交は清国が行うことになっていたからである。ただ、日本には金玉均ら、朝鮮から見れば国賊にあたる人物が亡命していたため、彼らを送還するためにも朝鮮の公使館を作ろうとする動きが早くから見られた。

1897年1月に京橋区築地小田原町に仮公使館が開設された。付近には金玉均、朴泳孝ら「国賊」にあたる人物がいた。この仮公使館は公使が赴任せず、また外向的な手続きもなくすぐに閉鎖されたようである。

正式に開館したのは同年9月で、所は赤坂区霊南坂町の黒田長成別邸であった。ここは借地であったため、正式な公使館の場所を探して、麹町区中六番町、初代日銀頭取であった吉原重俊邸を借りることにした。当時は外国人土地法によって外国人は土地を持てない時代であった。1898年、江戸時代の旗本屋敷以来続く吉原邸の建物をそのまま使用したようである。この建物は1894年1月1日に火災で焼失し、以後仮公舎が建てられた。この前の道に拡張計画があったからである(拡張計画はのちに撤回され、現在でも当時のままの道幅である)。

公使館は1905年12月、第二次日韓協約締結に伴う、韓国の外交権喪失により廃止され、留学生監督部となった。さらに1912年、ここに留学生寄宿舎が建てられ、1923年の関東大震災で焼失するまで続いた。

現在はマンションと、千代田女学園のグラウンドの一部になっている。

2019年1月10日木曜日

守命供時の碑(壬午軍乱供養碑)

墨田区堤通 木母寺(東武伊勢崎線鐘ヶ淵より隅田川方面10分)

1876年日朝修好条規が締結された。それまで強固な鎖国政策をとっていた大院君から、息子の高宗に政治の実権が移ったときで、政権も保守派から開化派に移っていた。この状況を背景に日本側が朝鮮側にこの条約を締結させた。この条約は、明治政府からみると朝鮮の開国であり、朝鮮側からは江戸時代以来続いてきた通交関係の復活であった。

いずれにせよ、この条約をきっかけに日本側が開化政策を「指導」した。軍隊もそれまでの軍隊の他に、日本が指導する新しい軍隊が設置された。1880年には日本公使館も設置された。この開化政策に対して保守層は不満を持っていたが、1882年、旧式軍隊に対する米の遅配問題がきっかけとなって、壬午軍乱がおき、一時的に大院君政権が復活した。

このとき新式軍隊を指導した堀本礼造ら14名が殺害され、残る花房義質公使らは、公使館を脱出して仁川から日本に戻った。

碑は、事件から五年後の1897年に建てられた。花房ら生存者が建立したものであるが、なぜここに壬午軍乱の碑が建てられたかは明らかでないが、花房が木母寺と深い関係にあったことから、ここに建てられたものと考えられている。

碑は寺境内ではなく、寺の門を出たそばの塀沿いにある。現在の木母寺は1976年に、再開発事業のために今の位置に移転したのだが、移転以前も寺の前の公園に置かれていたという。公園も寺の敷地だったそうだが、移転後も、そのときの置き方に従ったようだ。


2019年1月9日水曜日

仮名垣魯文の墓(金玉均6)


谷中永久寺(文京区谷中4丁目)にある。

仮名垣魯文は『安愚楽鍋』を書いた、江戸末期から明治期にかけての戯作者兼新聞記者である。1894年11月没。戒名は「仏骨庵独魯草文居士」。そう書かれた碑文には「韓人 金玉均書」の文字が見える。

仮名垣魯文は金玉均に墓碑を書くように依頼した。11月に仮名垣魯文は死亡したが、金玉均はその半年前に上海で殺されてしまった。魯文との順番が逆転してしまったのである。

鈴木家墓所(金玉均5)


北千住慈眼寺にある。
1892年建立で、墓標には「鈴木家夫人草野智嘉之墓」と刻まれている。

鐘楼碑(金玉均4)



北千住、勝専寺境内にある。
金玉均は父島、母島と流された後、病気療養を理由に北海道に移される。しかし、気候条件が合わないとう理由で東京に治療に出て来て、北海道に戻ることはなかった。

東京の潜伏地は明確でないが、北千住付近でなかったかと推定されている。それだから公会、非公開を含めて、金玉均関係のものがいくつか残っている。

慈眼寺の鐘楼下に埋め込まれた記念碑もその一つである。碑の題字には「金玉均」の文字が見える。

人心同碑(金玉均3)

杉並区久我山 久我山稲荷神社(井の頭線久我山駅)

久我山稲荷拝殿前に立つ碑。金玉均が母島にいたとき、若くして母島で砂糖製造業をおこした飯田作右衛門に出会った。作右衛門は遠くにいる父親に孝行できないと嘆き、それを聴いた金玉均は感動して作右衛門の父に「離れていても人の心は一緒(人心同)」と書いた手紙を送った。それをのちに碑に刻んだものである。

飯田作右衛門は「砂糖王」とされるが、母島側には何の史料も残っていない。後に小笠原で出されたものでも、砂糖工場関係に飯田の名前は出てこない。そのため、実際にどのような活動をしたかについては、現時点では不明である。