公使館付近
敷地にあった、江戸時代に建立された石碑
千代田区四番町。ルクセンブルク大使館隣(市ヶ谷駅)
1876年、朝鮮王国と日本の国交が回復された以来、日本に朝鮮公使館が設置されるまでかなり時間がかかった。清との冊封下にあり、形式上外交は清国が行うことになっていたからである。ただ、日本には金玉均ら、朝鮮から見れば国賊にあたる人物が亡命していたため、彼らを送還するためにも朝鮮の公使館を作ろうとする動きが早くから見られた。
1897年1月に京橋区築地小田原町に仮公使館が開設された。付近には金玉均、朴泳孝ら「国賊」にあたる人物がいた。この仮公使館は公使が赴任せず、また外向的な手続きもなくすぐに閉鎖されたようである。
正式に開館したのは同年9月で、場所は赤坂区霊南坂町の黒田長成別邸であった。ここは借地であったため、正式な公使館の場所を探して、麹町区中六番町、初代日銀頭取であった吉原重俊邸を借りることにした。当時は外国人土地法によって外国人は土地を持てない時代であった。1898年、江戸時代の旗本屋敷以来続く吉原邸の建物をそのまま使用したようである。この建物は1894年1月1日に火災で焼失し、以後仮公舎が建てられた。この前の道に拡張計画があったからである(拡張計画はのちに撤回され、現在でも当時のままの道幅である)。
公使館は1905年12月、第二次日韓協約締結に伴う、韓国の外交権喪失により廃止され、留学生監督部となった。さらに1912年、ここに留学生寄宿舎が建てられ、1923年の関東大震災で焼失するまで続いた。
現在はマンションと、千代田女学園のグラウンドの一部になっている。
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