墨田区堤通 木母寺(東武伊勢崎線鐘ヶ淵より隅田川方面10分)
1876年日朝修好条規が締結された。それまで強固な鎖国政策をとっていた大院君から、息子の高宗に政治の実権が移ったときで、政権も保守派から開化派に移っていた。この状況を背景に日本側が朝鮮側にこの条約を締結させた。この条約は、明治政府からみると朝鮮の開国であり、朝鮮側からは江戸時代以来続いてきた通交関係の復活であった。
いずれにせよ、この条約をきっかけに日本側が開化政策を「指導」した。軍隊もそれまでの軍隊の他に、日本が指導する新しい軍隊が設置された。1880年には日本公使館も設置された。この開化政策に対して保守層は不満を持っていたが、1882年、旧式軍隊に対する米の遅配問題がきっかけとなって、壬午軍乱がおき、一時的に大院君政権が復活した。
このとき新式軍隊を指導した堀本礼造ら14名が殺害され、残る花房義質公使らは、公使館を脱出して仁川から日本に戻った。
碑は、事件から五年後の1897年に建てられた。花房ら生存者が建立したものであるが、なぜここに壬午軍乱の碑が建てられたかは明らかでないが、花房が木母寺と深い関係にあったことから、ここに建てられたものと考えられている。
碑は寺境内ではなく、寺の門を出たそばの塀沿いにある。現在の木母寺は1976年に、再開発事業のために今の位置に移転したのだが、移転以前も寺の前の公園に置かれていたという。公園も寺の敷地だったそうだが、移転後も、そのときの置き方に従ったようだ。