青山墓地(外人墓地)
1894年、金玉均は上海で殺害される。遺体は韓国に持ち帰られたが、遺髪などを密かに持ち帰り、浅草の東本願寺で盛大な葬儀が行われた。その後、青山の外人墓地に埋葬され、墓碑がたてられた。碑文は朴泳孝が選択したが、原文は兪吉濬が書いたとされる。筆は大院君の孫、李埈容である。
韓国の牙山にある金玉均の墓には、青山墓地に埋葬されていた遺髪が埋められている。
この近くには、朴裕宏の墓もある。朴裕宏は1882年、慶應大義塾に留学したが、1884年の甲申政変の混乱で帰国出来ず、日本で自決してしまった。表面には「堕涙碑」、裏面に「嗚呼朴裕宏之墓」と彫られている。
かつて外人墓地にはもう一つ韓国人の墓があったが現在は見られない。青山外人墓地の管理者不明の墓が整理したときに、失われたものと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿